本日公開!『日輪の遺産』佐々部清監督インタビュー

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日本を代表する作家・浅田次郎の「原点」ともいえる小説『日輪の遺産』(1993年)が、待望の映画化。メガホンを撮ったのは、助監督時代に『鉄道員(ぽっぽや)』『ホタル』などを手掛けた経験を持つ佐々部清監督。監督になって10作目の節目に浅田作品の監督を務めた、現在の心境を福岡の街で語ってくれた。

 8月某日ソラリア西鉄ホテルにて
■戦争(太平洋戦争)というテーマを映画にしようと思ったきっかけは?
佐々部清監督(以下佐々部)/実はこの映画は、先方からオファーをいただいた企画で、そのオファーというのが、浅田次郎先生の作品と言われ、とても嬉しかったのを覚えています。助監督時代に「いつかは監督として浅田文学が撮れるように」という夢があったので、「ついに自分が...」というのが最初の印象です。そういえば助監督最後の作品が、高倉健さん主演、降旗康男監督の『ホタル』という映画でした。 おふたりのDNAを受け継いだ"映画屋"として「戦争を繰り返しちゃいけない」というテーマを、どこかでやりたいなとも思っていて、今回、自分が戦争をテーマに選んだわけではないのですが、『出口のない海』『夕凪の街 桜の国』を撮り、またその機会が訪れたんだなと。

■映画の内容も素晴らしかったです!
佐々部/少女たちの悲劇的な話を膨らましながら映画をつくれば、それだと『ひめゆりの塔』になってしまう。悲劇的なだけの戦争映画にしたくなかったんです。 そこで、『日輪の遺産』というタイトルはどんな意味が?と思って小説を何度も読み返すと「国生みの神話」という6文字だけに傍点があり、今回の『日輪の遺産』」という映画は「国生み」の物語をやろうと。そんな映画にすればいいんだと思って、ポスターのコピーにある「いつか、この国が生まれかわるために」が伝わる映画に!と思いました。

■戦争を知らない世代の少女たちには、どのような演技指導をされましたか?
佐々部/僕も(戦争を)知らない世代ですから(笑)。直接は助監督(女性)にまかせました。ただし、 彼女たちに最初に言ったのは、お互い戦争を知らない同士なのだから、一緒にこの映画を作りながら、この時代のことを勉強しよう!がスタートです。ただ、映画全体として彼女たちがリアルじゃないと、大人たちもリアルじゃなくなる気がして。だからオーディションは、すごく苦労しました。 例えば、今流行の少女グループの上位のコたちをキャスティングしたとして、動員は増えるかもしれないけど、お芝居として成立するかな?って。2時間の物語を作るときに、小さい真実を重ねたいっていつも思っている中、スタッフには今回のオーディションでは、アイドルやグラビアに合格しそうな子は、呼ばないでほしいって言いましたね。演技指導っていうよりも、いろんな訓練をしました。撮影に入る前に毎週土日に集合させて、モンペや運動靴をはかせて、衣装になじませ、撮影場の駐車場を走らせ、二列縦隊で歩く。常に背筋をのばし、各自が大きな声で歌が歌えるようになる。鬼軍曹のような助監督が、ほんとに赤鬼さんみたいになって訓練していました。ご飯を食べるときも正座です。おまけに撮影中は、甘いものを食べるのは禁止。差し入れのスウィーツも彼女たちは一切食べない。そうすることで、おにぎりをひとつ食べるとき、食べる喜びが表情にきっと出るだろうって。 撮影がスタートした頃に比べたら顔つきが変わり、強い目になりましたね。彼女たちはいい体験をしたと思いますよ。僕の娘も体験させたかったな。(笑)

■堺雅人さんにオーダーしたことは何かありますか?
佐々部/ふたつお願いしました。まず、微笑みの貴公子・堺雅人の微笑みを封印しよう(笑)。 ふたつ目は彼だけじゃなく、3人(堺雅人 中村獅童 福士誠治)に共通してお願いしたのは、リアルな軍人の芝居をしようって。なぜなら、僕たちが知っている軍人像は、TVドラマや映画で見た"軍人"で、いつも胸をはって、目の前で話しているのに「貴様!」とか大声をだす。すぐ殴るとか。それはやめて、あとで叩かれてもいいから、等身大で人間的な軍人の演技をしようって!彼(堺)は本当に研究熱心で、戦時中に近衛師団でバリバリ活躍していた方の所や自衛隊にも見学に行き、当時の経済の本なども読んでいましたよ。軍刀も肌身離さず身に付けていたのはすごい!

■福士誠治さんとは『チルソクの夏』以来でしたが、いかがでしたか?
佐々部/かわいいんですよね~。あいつは真っ直ぐな奴で(笑)。 「やっと福士にやらせたいっていう役がきたぞ!」と思い、とにかく彼には、堺雅人が"変化球"ならば、(福士は)直球でのお芝居をお願いしました。

■最後にこの映画で伝えたいことは?
佐々部/戦争で焼け野原になったのを、たった十数年で復興させたのは恐らく世界で日本ぐらいしかなくて、この前も広島に行って、よくここまで復興したなと思いました。この映画を作っていた当時はリーマンショックで経済が冷え切っていて「もうちょっと頑張れるぞ」って"応援の映画"にしたいなって思っていたけれど、それから3月11日に震災がおきてしまい...。先日、石巻を訪れてボランティア上映をしたんですけど、石巻の人に映画を観る余裕はないって正直思いました。被災地を回るとTVで観る被災地と全く違い、そこはまるで昭和30年代に戻ったような感じでした。TVでもよく見かける大川小学校にも行きました。子どもたちの碑の前で手を合わせていると、子どもたちの声が聞こえてくる気がして、動けなくなってしまい...。映画の少女たちとダブってしまうんですよ。映画の宣伝みたいで嫌なんだけど、この映画を完成させるまで5年もかかり、今この時期に公開できるってことは、なんだか映画の神様が「佐々部、5年かかったのは無駄じゃなくて必然。だからこの時期にこの映画を公開することになったんだよ。」って言われているみたいな気がします。この映画を観て復興できるわけじゃないのだけれど、どこにいても僕たちは日本の陸続きにいて、日本人として生きている限りあの震災のことをやっぱり心に留めておかなければいけない。この映画は、そんなキッカケになりそうな気がしています。大事な人と一緒にこの映画を観てもらって、観て感じたことを、被災地の人たちにちょっと馳せてもらえれば、それだけでこの映画を作った意義みたいなものが自分の中で完結できるかなと。最後に、この映画を今、公開できるということを、ちっちゃな映画人として誇りに思っています。

映画『日輪の遺産』
あと数日で太平洋戦争が終結しようかという時、軍の上層部から極秘の指令を受け、GHQ最高司令官・マッカーサーの財宝を隠ぺいしようとした真柴少佐(堺雅人)ら陸軍将校3名。彼らに手助けをしたのは、財宝とは知らずに「お国のために戦争に勝利するための兵器を隠す」と教えられた20名の女学生たちだった...。
※8月27日(土)より、中洲大洋、ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13、T・ジョイ博多、TOHOシネマズ トリアス久山、ワーナー・マイカル・シネマズ福岡ルクルなど、全国拡大ロードショー
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(C)2011「日輪の遺産」製作委員会

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このページは、Cinemaが2011年8月27日 18:01に書いたブログ記事です。

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